ようこそ、おこしやす、修学院 式と申します。
今の京、昔の京、思いつくままに書き散らかしてます。どうぞ、ごゆるりと。
 
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2008.06.30 Monday
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癒しの街、争いの街
京都で先の大戦ゆうたら「応仁の乱」を指すて物言いは、今でもたしかに耳にします。当時は都のほとんどが焼け野原になってしもて、かろうじて「構」によって囲まれた、「上京」と「下京」が室町通りで結ばれた、ちいさい町になってしもてたそうです。そこまで遡って、もともと、どこそこは..って、場所の格付けが大好きな、お年寄りには格好の枕詞になってますわ。

まぁ、京都にとってそんだけ「応仁の乱」は再出発の原点やったんでしょうなぁ。さすがに「応仁の乱」以前から続くおたなは、そうそうあらへんとおもいます。

都が荒れ果てたんは、この時ばかりやないようです。幕末の「蛤御門の変」では、洛中は三日三晩、燃え続けて街の3分の2を焼いたて聞いてます。大砲の音がどんどん鳴ってたんで、この大火を「どんどん焼け」てゆうてます。

もちろん、幕末の体験を語るおひとなど、会うたことはあらしまへんけど、まさに先の大戦、太平洋戦争のころの話は母や叔父から、よう聞かされました。当時は京都も空襲に備えて、お子たちは若狭のほうへ疎開してたそうです。来る日も来る日もカボチャばっかり食べさせられて、叶わんかったらしいです。「戻り橋」から出征して、帰ってこられへんかった若者もたんといました。あっ、こんなことは終戦記念日にでも書くべきことでしたなぁ。堪忍。

京都に来ると、癒されるてゆうてくれはるおひとも、たんといたはりますけど、この街は、むかしからぎょうさんの死を見つめてきました。魔や霊も永い時間にはぐくまれて、この街の一部になってます。
2006.09.17 Sunday
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ゆくはかへるの橋
「京都検定」たらもんがあるゆうんわ、知ってましたけど、正直、たかをくくってました。最近、出題集をみせてもうたんですけど、よう分かれへん問いが、もうぎょうさんあります。この検定、ほんまにむつかしいですわ。

「新京極をつくったんは誰か?」とか「松尾大社の建築様式は?」とか、恥ずかしながら、ちんぷんかんぷんです。考えたら、京都は長いこと都として、入れ替わり立ち替わり、いろんなおひとが活躍してきた街ですやろ。郷土史はそのまま日本史ゆうことになりますし、出題ネタは無限にありますやろなぁ。

庵の近くにある、「一条戻り橋」もそんな歴史が降り積もった場所のひとつです。「戻り橋」は一条堀川にかかるちいさな橋で、その名の由来は、文章博士の三善清行ゆうおひとが亡くなった折、清行の子が、この橋の上で棺にすがって神仏に祈ると、清行は生き返って、親子は言葉を交わすことが出来たゆうことによるそうです。古くは源氏物語に「ゆくはかへるの橋」とかかれ、和泉式部も歌にしたはります。

いづくにも 

帰るさまのみ 渡ればや 

戻り橋とは 人のいふらん

(和泉式部)


源頼光四天王の一人、渡辺綱が美女に化けた鬼の腕を、太刀で切り落としたのは、この橋です。安倍晴明が式神を飼うてたのも、この橋です。利休が秀吉に切腹を命じられた折、その首が曝されたのも、またこの橋です。最近では、赤紙に招集された兵隊さんが、無事に戻ってこれるように、ここを渡って出征していかはりました。日本最初の電車が走ったんは、この橋の前の路ですし、昭和の始めには、この橋の下で、友禅洗いをしてて、堀川は紅に染まっていたそうです。

この、ちいさいちいさい橋の上で、ほんまにいろんな出来事が積み重なってきました。せやけど、今ではそんな歴史はもう飽きたとでもゆうように、なんの変哲もないコンクリートの橋がかかり、その下の堀川の流れは枯れてます。この街に積もる歴史は、すこしばかり多すぎるんかも知れまへん。
2006.09.06 Wednesday
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